《絵画と小説》偶然、引かれた線
   井原  信次

⚫︎ あらすじ
病気により意識不明のまま眠っていた画家は、20年ぶりに奇跡的に目を覚ます。そこは2045年の広島。過去の記憶を振り返りながら、街中のとある喫茶店に辿り着く。店内に飾られていた一枚の絵に目が留まり、20年前に自身が描いたものであることを知る。ミュージシャンとの出会いをきっかけに描かれたその絵の背景は...。被爆から100年の節目を迎えるヒロシマを舞台に、過去のものが現在のものとなり、未来のものが現在のものとなる世界を絵画と小説で描く。​​​​​​​

「ピッ、ピッ、ピッ…」

耳元で繰り返される機械音。そのリズムと、瞼の裏に感じるまぶしい外光にしばらく身をゆだねていた。

ゆっくりと目を開く。まぶしいLEDの光が視界に差し込み、白く均質な天井がぼんやりと浮かび上がる。体はベッドに横たえられ、隣のベッドとは薄いカーテンで仕切られていた。右腕には点滴が繋がれ、透明な液体がぽたぽたと体内へと落ちてくる。

そのたびに、力がすーっと抜けていくような感覚があった。

「ピッ、ピッ、ピッ…」



一人の女性が部屋に入ってきた。

私の視線に気づいたようだったが、特に驚く様子もなく、慣れた手つきで体に繋がれたチューブを点検し、器具の補充を始めた。

「それは何ですか?」と声をかけると、

彼女は目を大きく見開き、「意識が戻ったんですか!?」と叫んだ。私の問いには答えず、そのまま足早に部屋を飛び出していった。

少しして担当医が現れ、これまでの経緯を話してくれた。

20年前、私は脳出血を起こしてこの病院に搬送され、緊急手術を受けたという。脳の損傷は深刻で、医師たちは意識が戻る可能性は極めて低いと判断。尊厳死も提案されたが、家族は母の強い願いを尊重し、延命治療を選んだという。

私は58歳になっていた。



そこから一週間、各種検査が繰り返された。意識を取り戻したことは奇跡だと言われたが、20年という歳月はあまりに重く、体も記憶もそれを正直に物語っていた。

筋力の著しい衰え。皺の増えた皮膚。言語と記憶の障害。特に記憶障害はひどく、意識的に思い出すというより、目に入ったものから情報を抽出していくような作業であった。家族や友人たちとの面会でさえ名前を言われてやっと記憶が蘇るといった感じ。

それでも辛いリハビリを重ね、春には退院して家に戻れることになった。



迎えのタクシーはAIによる自動運転で無人になっていた。2025年の日本では見ない光景だったが、ずらっと並んだ無人タクシーたちがビーッビーッとクラクションを鳴らし合っている姿は、少し悍ましく感じた。

タクシーが家の前に止まると、記憶が洪水のように押し寄せてきた。

歓楽街のはずれにある二階建ての古い一軒家。そこをアトリエにして絵を描いていたこと。隣がヤクザの事務所とラブホテルだったこと。ヤクザは朝が早く、家の前に黒塗りの車が停まっていて自転車が出せず困ったこと。ラブホテルの外壁が褐色から水色に変わり、その反射光が部屋に差し込んできて、絵が描きづらくなったこと。

どうでもいいことほど記憶に残っているのは不思議なものだ。



部屋は綺麗に整っていたが、私のアトリエだけが時が止まったように当時と変わらないまま残されていた。

家の脇に生えている名前の分からない木が、変わらず二階の窓から見えた。彼は切っては伸び、切っては伸びを繰り返し、家裏の駐車場へ飛び出していくからあまりいいヤツではなかった。ただ、その大きな葉っぱと鮮やかな緑が、古く錆びれたこの家に少しばかりの潤いを与えてくれていた。

その木を見つめていると、何か大切なことを忘れているような気がした。



木の根元に、小さな鉄の札が巻かれているのに気づいた。そこには「TC2025」とニードルで彫ったような文字が刻まれている。

ああ、私が彫ったものだ。

脳の片隅で、遠い恒星が一瞬だけきらめくような感覚がした。

私はショベルを取りに行き、木の下を掘り起こした。硬い土を掘り進めると、ステンレス製の細長い筒が現れた。

その筒には「Time Capsule」の文字。

アトリエに戻り、固く締められたボルトを一本ずつ外していく。中から出てきたのは、私が2025年に埋めた写真や日記たちであった。

写真を手に取り、ある記憶がはっきりと蘇った。

私は、その記憶を確かめるために街へ出ることにした。



流川・薬研堀エリアの街並みは、思ったほど変わっていなかった。古い家々がコインパーキングになっていたくらいだろうか。

中央通りを渡ると、右手には福屋デパート。八丁堀本館は被爆建物でもあり、私にとって街の象徴のような存在だった。変わらぬ姿にほっとした。

あの最上階の喫煙所でよく煙草を吸っていた。子どもたちが遊ぶ屋上の広場を眺めながら、陽の光を浴びるあの一服の心地よさ。

だが時代は変わった。

2021年の東京五輪以降、受動喫煙防止の法整備が進み、外でタバコを吸える場所は皆無に近くなった。2045年には喫煙者は絶滅危惧種である。

立ち寄ったコンビニで「Winstonの1mmロングはありますか?」と尋ねると、店員はバックヤードから取り出してきた。今では紙巻タバコを買う人もほとんどいないという。



私はタイムカプセルの記憶を頼りに金座街へ向かった。

十年以上、
広島に住んでいながら、いつもこの通りの名前を金か銀かで覚えられずにいた。
金座街の名は1929年、福屋の出店にちなんで「銀座よりも立派な街に」と名付けられたらしい。ギラギラしているのが銀座なら、キラキラしているのが金座街だろうか。地元の老舗と全国チェーン店が共存する広島でも活気のある商店街だ。入れ替わる店舗も多かったが、いつからお店を営んでいるのだろうという古いお店も多かった。

近所だったから毎日のように来ていたし、よくここで一服することが多かった。私は買ったタバコを手に目的の場所であった喫茶店に向かった。

名前は「イエスタデイ」。

広島に住んでいれば、行ったことがなくても名前は聞いたことがあるだろう。「ああ、あのレトロな店ね」と。

昭和の空気をそのまま残す店内では、ビートルズの音楽が流れ、壁にはレコードやポスター、関連グッズがぎっしり飾られていた。小洒落た高いカフェと違って、リーズナブルな価格で提供されるコーヒーや軽食も老若男女に愛される理由だろうか。

入口の階段を上がると10席ほどのカウンター席とその奥にレジカウンターとがあり、そこで注文をして商品を受け取って、空いている席を探すといった感じ。2階からまた階段をのぼると3階には小さな丸いテーブル席とその奥には区切られた喫煙席とがある。

私は昔からここが好きだった。まぁ、コーヒーを飲みながらタバコが吸える場所が他になかったというのもあるが、日頃、何かにストレスを感じることがあっても、ここに来れば別世界に入り込んだように何も関係がなくなる。私にとってのセーフティースポットであった。

人間観察はもとより、私は一人ここで毎日のように、文章を書いたり、その日に描く絵を考えたり、雑念がない空間でしか出来ないことをやっていた。



20年ぶりのイエスタデイ。


変わらずマスターが出迎えてくれた。出迎えてくれたと言っても何か話すわけでもなく、いつも頼んでいたアイスラテを注文し3階の喫煙席へ向かった。年老いた私にはさすがに気付かなかったのだろう、私も恥ずかしくて何も言えなかった。

20年前、毎日のように通っていたイエスタデイ。

マスターにも顔を覚えられていて、私がレジカウンターに辿り着く頃にはいつもアイスラテが出来上がっていた。私はそれが好きだったから、寒い冬の日でもアイスラテしか頼まなかった。

懐かしい味とBGMを楽しみながら、20年ぶりのイエスタデイでの時間を過ごしていた。

トイレに立ったとき、階段のそばに飾られた一枚の絵に目が留まった。それにはイエスタデイの前を4人で歩いているビートルズの姿が描かれていた。

しばらくその絵を見ていると、3階に上がってきたマスターが声を掛けてきた。

「やっぱり君だったんだね。」

マスターは実は気づいていたらしい。でも、人違いじゃいけないし、確信が持てるまでは話しかけまいと思っていたようだ。

マスターもポーカーフェイスである。

昔通っていた頃、態度の悪い客がいたりすると厳しく対応するマスターをよく見かけていたから、少し怖くて話しかけられなかった。でも、お互いご近所さんだってことが分かった時からよく話すようになって、もうそれはそれは満面の笑顔で話しかけてきてくれる。ギャップがすごいんだ。

20年経ってマスターもよい歳になっていたけど、変わらない笑顔が見られて嬉しかった。

「これは君が描いたんだよ。」

「そうでしたっけ…」

記憶障害のことを話すと、マスターがこの絵を描いた時のことを話してくれた。

それと同時に、私も当時の記憶が蘇ってきた。





あれは2025年の春のこと、桜が満開で風がやわらかい夜だった。

その夜、私はいつものように「イエスタデイ」でアイスラテを飲んでいた。夜10時半を過ぎた頃、外国人観光客らしい男たちが喫煙席に入ってきた。ソファ席にゆっくりと腰を下ろし談笑し始めた。

鏡越しに見えたその姿は、どこか見覚えがあった。

閉店時間が近づき、同じ階には私とその外国人たちだけになっていた。1階からシャッターが閉まる音が響く。

片付けを終えたマスターがやって来て、彼らに何やらお願いをしているようだ。話を終えたマスターに尋ねると、いつも冷静なマスターが少年のように目をキラキラと輝かせていた。

「彼ら、ビートルズだよ!信じられないだろ?」

手には4人のサインが書かれた紙。

嘘だろ?と思いながらも、壁に飾られたポスターの中の顔と目の前の彼らの顔は驚くほど似ていた。

心臓が急に早鐘のように鳴り出した。

私はスマホを手にし、恐る恐る近づいて声をかけた。

「Could we take a picture together?」

「Sure, sure ‼︎」と笑顔で応じてくれた。信じがたい現実だった。写真の中で彼らの腕が私の肩に回っていた。その手の感触が夢でないことを物語っていた。

写真を撮ってくれた後も彼らは、「こっちで一緒に飲もうよ」と仲間に入れてくれた。

彼らは曲作りのために広島を訪れているという。1966年の来日以来、日本には訪れていたが、広島は初めてだという。

私も自己紹介をして「I’m a painter」と話すと、彼らは興味津々で私のポートフォリオを覗き込み、レノンはしきりに「いいね、君のタッチが好きだ」と言ってくれた。

彼らが武道館公演の際に滞在中のホテルで4人で描いた《Images of a Woman》という絵や、レノンが美術専門学校に通っていたことも知っていたから、アートにも馴染みがあるのだろうとは思っていた。

そのうち、「君、ポートレートが得意なの?」とレノンが尋ねてきた。

「Yes, that’s my main subject」と答えると、4人は何やらヒソヒソと相談し始めた。

やがてレノンが、少し照れくさそうに言った。

「僕たちをモデルに絵を描いてくれないか?」

耳を疑った。冗談かと思ったが、彼の目は真剣だった。

「ちょうど今、制作中の新曲があってね、そのジャケットに使うビジュアルを探していたんだ。」

まさか。ビートルズから絵を頼まれるとは考えにも及ばなかった。果たして何を描いたらいいのやらと思いながらも、その場の空気で「OK」と返事をしてしまった。

これも何かの縁だし、彼らにとっての出会いもアートなのだろうと推測した。

彼らは作曲のインスピレーションを得るために、明日広島を巡る予定だったらしく、「よかったら案内してくれないか」と私に持ちかけてきた。

私は「広島には住んでいるけど生まれは違うし、案内できるほど広島のことを知らないよ」と返したが、それでも彼らは「だからこそ一緒に探検しようよ!」と説得された。

次の日、彼らとサイクリングをしながら被爆建物を巡ることにした。彼らも建築に興味があるようだったし、広島を巡るには自転車がちょうど良かった。というのも、私も何処を廻ればいいかよく分からなかったし、当時、「広島ピースツーリズム」という広島市が紹介していた被爆建造物を巡るルートを辿ることにした。近くに住んでいてもなかなか行く機会もないし、彼らと共にヒロシマを見ていくのにはちょうどいいと思った。



次の日の朝、彼らが泊まっているホテルで待ち合わせることにした。そこは2025年3月にリニューアルオープンした広島駅の上に新しく出来たホテルだった。

少し肌寒さが残る4月の早朝。
誰もいない駅ビルの屋上で彼らを待つ間、眼下には駅前通りの景色が一直線上に広がっていた。

2020年から2025年までにリニューアル工事を行っていた広島駅。リニューアルオープン初日、少し胸を踊らせながら屋上まで上っていったことを覚えている。

東京、大阪、福岡などと比べるとそこまで大きくない駅ビルだったが、路面電車が構内まで乗り入れる新設計に加え、家電量販店や百貨店に繋がるペデストリアンデッキが整備され、市民にとってより身近な駅になっていた。

駅前は被爆後、焼け野原に闇市の露店やバラックが立ち並び、その商人の多くは戦地から帰ってきた幅員だったという。1960年代、市の職員たちが川沿いに建てられたバラックを行政執行により取り壊し、闇市から派生した暴力団が拳銃発砲事件を起こすこともあったという。そういう「仁義なき戦い」の時代の上に、新しい広島の姿を見ると感慨深いものがある。

ホテルのフロントから4人が出てくるのが見えた。イギリス訛りのアクセントで「Good Morning」と挨拶をしてきたのが印象的だった。私も真似て、そのあと何回か練習したのを覚えている。

すでに自転車を借りてきていた私は、彼らとコンビニに行き一日レンタル券を4枚購入した。

最新型のスマートなモデルもあったが、あえて古い赤のタイプを選んだ。そちらの方が安いというのもあったが、広島を巡るならやっぱり赤だろうと。あるいは、イギリス人には赤が似合うとの安易な憶測だったのだろう。

彼らも、子どもの頃はよく自転車に乗っていたという。借りた自転車をすぐに乗りこなし、私より前に走ることもしばしば。お忍びで来ている彼らの案内人としてはひやひやすることもあったが、まぁ、ビートルズが広島に来ているとは誰も思うはずもなく、そこまで気にはしていなかった。

颯爽とペダルを踏む姿は、まるで少年のようだった。

桜並木を横目に平和公園の側道を走り抜けて、私たちはやがて平和記念資料館へと辿り着いた。
​​
駐輪場から資料館の入口へ歩いて向かう途中、建物の下に伸びる無機質なコンクリートの通路があった。私はそこが何故か好きだった。

この建物を設計した丹下健三も戦争中に家族を亡くしたという。だからだろうか、彼の建築には沈黙の中に血の通った悲しみを感じる。光がある場所には、必ず闇がある。そのことを丹下は知っていたのか、彼の生んだこの空間では、光がまるでかつての闇を知っているように美しく輝いて見える。

私たちは、ひっきりなしに訪れる外国人観光客の列に混じってチケットを買い、押し流されるように展示空間へと入っていった。

暗く、ひんやりとした空気。それは空調の温度ではなく、記憶の底に触れるときに訪れるある種の冷たさだった。
暗室を進んでいくと、どこかで方向感覚が失われていく。

展示室には、焦げた制服、歪んだ水筒、破れた日記帳、止まったままの時計。それらが言葉を超えて私たちの心に語りかけてくる。

レノンは長い時間、一枚の写真の前で立ち尽くしていた。焼け爛れた街のパノラマ写真。建物も人も全てが灰に覆われている。その目は、どこか遠くを見つめていた。

その姿を見て、私はふと想像した。彼の内側に広がっていたのは、広島の光景だけではなかったのではないか。彼の生まれ育ったリヴァプールの街。破壊と再生を繰り返してきた港町の記憶が、彼の中で静かに交錯していたのかもしれない。

この建物も、この展示も、答えを求めているわけではない。けれど、確かに何かを訴え続けている。

広島に初めて訪れる人の多くが、原爆ドームと平和記念資料館を目的地に選ぶ。観光地とは呼びがたい場であるにも関わらず、人々はそこに向かう。それは、知らなければならない、という静かな義務感かもしれない。あるいは、触れておかなければならないと心の奥が告げているのかもしれない。

資料館を出たとき、私たちは誰も、すぐには言葉を発することができなかった。

無言のまま自転車にまたがり、次の目的地、本川小学校平和資料館へと向かった。

小学校の敷地内に併設されたこの資料館は、平和公園から川一本隔てた場所にありながら、私はこれまで一度も訪れたことがなかった。

外から呼び出しブザーを鳴らし門を開けてもらう。敷地内に入ると、アーチ型のモダンな玄関が優しく迎えてくれた。

展示室に足を踏み入れると、鉄筋コンクリートの壁に囲まれた空間には、音のない張りつめた緊張感が漂っていた。壁際には、小学校の教師や生徒たちが長年集めてきた遺品や記録が丁寧にガラスのショーケースに収められていた。

階段を降り、地下へ向かう。そこには焼け焦げた配電盤や、広島平和記念資料館から寄贈された原爆投下直後の街の模型があった。その中心には爆心地を示す赤い球体が一つぽつんとぶら下げられている。全てがあの一点から始まった。その事実が模型の静けさの中でずっと語りかけていた。

地上に戻ると、桜の花びらがひとひらと校庭に舞い降りていた。近隣は、住宅やマンションが建ち並び、ここが「日常」の中にあることを改めて知らされる。

私たちは再びペダルを漕ぎ、平和公園へと戻った。

ちょうど昼時だったので、近くのスーパーで簡単なお寿司を買い、川沿いの桜並木の下に腰を下ろすことにした。

桜の木のあいだから原爆ドームがそっと顔を覗かせている。広島に暮らす私にとっては、何度となく目にしてきた光景だった。それでも、目にするたびに違った表情を見せる不思議な建物である。

ふと、川岸からギターの音が流れてきた。

おじさんバンドが、ビートルズの「Let It Be」を演奏していた。彼らの演奏は少しぎこちないけれど、どこか誠実な響きがあった。私たちは顔を見合わせ、少し照れくさそうにしながらメロディを口ずさんだ。

桜と寿司とビートルズ。

ありふれた要素が重なり合って、静かな奇跡のような時間が流れていく。音楽も、都市の記憶も、そして出会いも、ただそこに在るだけで充分に美しかった。

原爆の子の像の前では、観光客が祈りを捧げ折り鶴を結ぶ姿があった。世界中から持ち寄られた祈りが、いまこの場でひとつに束ねられていた。

次に訪れたのは、旧日本銀行広島支店。

重厚な石造りの建物は、戦前の広島において金融の中枢を担っていた場所だ。壁には、爆風による煤の痕跡が微かに残っている。正面扉を開けて中へ入ると、空気がすっと冷たくなる。外の陽気とは対照的に時間が止まったような静けさがあった。

吹き抜けの大広間は、市民ギャラリーとして活用されていた。私はふと、かつてここで展覧会に参加した記憶を思い出した。文化財指定の建物ゆえ、壁にビスひとつ打てず、展示方法に苦心したこと。そのときの空間の緊張感と、静かな達成感が胸の奥に蘇った。

誰かが小さく足音を響かせた。

私たちはそのまま、地下金庫室へと続く階段をゆっくりと降りていった。少し迷路のようになった通路を進みながら、私たちは自然と散開し、それぞれの静寂と向き合っていた。

ふと振り返ると、ジョージが無言で壁に手を触れていた。ここでは語るよりも、聴くことのほうがふさわしい気がした。

地上に戻ると陽の光が一層まぶしく感じられた。建物の外壁をなぞるように春の風が静かに吹いていた。

その後、私たちは街の中を縫うように巡った。

袋町小学校平和資料館では、また違った空気に包まれる。
黒板にチョークで書かれた伝言。焼け残った校舎は、避難場所や救護所として使用され、児童や教職員や地域の人々の安否を尋ねる場となったという。その筆跡には、恐怖と願いが入り混じっていた。その文字の奥に、必死に誰かを探す声が今も響いている気がした。

展示を見ていたレノンがポケットから小さなノートを取り出し何か書いているようだった。

窓の外には桜、生徒たちが校庭で遊ぶ声が微かに届いていた。過去と現在が確かにここで重なり響き合っていた。

次の目的地・宇品方面へ向かう道すがら、広島大学旧理学部1号館と広島赤十字・原爆病院メモリアルパークに立ち寄った。

ファミリー層の多く住むこの千田町エリアでは、公園でボール遊びをする子どもたちや、バーベキューを楽しむ家族、犬の散歩をする人々の姿があった。その穏やかな日常風景のすぐ隣で、外郭だけを残すこの建物たちは戦争の記憶を静かに語り続けていた。

そこから再び自転車を走らせ、広島市郷土資料館へと向かった。​​​​​​​

目の前に現れたのは美しい赤煉瓦の建物。この資料館は、もともと明治時代に建てられた旧陸軍の缶詰工場だった。戦中は兵士の食料を、戦後は人々の記憶を伝える場として、その役割を変えながらこの街と共に歩んできた。

館内には戦前の町並みが精巧に再現されていた。暮らしの道具のひとつひとつが「広島に生きた人々」の時間を静かに語りかけてくる。

資料館のすぐ隣には小さな公園があって、数組の家族が花見を楽しんでいた。私たちもそろそろ休憩しようということになり、スマートフォンで近くのカフェを探していると「ミユキ茶房」という見覚えのある名前が目に入った。

店の場所を確かめながら、私たちはさらに南へ住宅街を進んでいった。


私が通っている英会話教室で何度か顔を合わせたことのある生徒さんがやっているお店だ。オープンしたのは数年前、けれどコロナ禍のさなか、訪れるきっかけを失ったままだった。今日、ようやく偶然が背中を押してくれた。

引き戸を開けると温かな油の香りと木の匂いが迎えてくれた。奥のテーブル席に腰かけ、みんなで作りたてのコロッケを頬張る。衣のさくりとした音、舌にひろがる甘みと塩気に誰からともなく笑みがこぼれた。

「今日は彼らと一緒に被爆建物を巡ってるんですよ」と店主に話すと、彼女は少し驚いたように「この家も被爆してるんですよ」と言った。

「裏の家、見ていきますか?」と案内していただいたのは、彼女の祖母が住んでいたという日本家屋。丁寧に手入れされた玄関をくぐると、どこか空気の密度が変わった気がした。格式のある佇まいの中、2階の柱の一角に爆風で割れた窓ガラスのかけらが今もなお突き刺さったまま残されていた。

「原爆の爆風で割れたガラス窓の破片がここまで飛んできたんです。私が幼い頃はこの柱の前を通るのが怖くて…」と話してくれた。

爆心地から遠く離れた宇品にも、あの日の痕跡は確かに刻まれていた。公に語られることのなかった小さな記憶が、静かにこの場所に染み込んでいた。

「音のない場所こそ、本当の音が響くんだね」と、ジョージがぽつりと呟いた。

〈 続きは近日中に更新予定 〉





後編は、ビートルズとロンドンを巡ったエピソードから、イエスタデイの歴史と広島との関係性、ビートルズPEACE LIVE 2025、 etc...



⚫︎ 作家プロフィール
井原 信次 Shinji Ihara 
1987年 福岡県出身。2012年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻修了。主にポートレイトを描くことを通して、自己と他者の関係性やその境界について考察・制作を行う。近年はこれまでの絵画表現に加え、様々なアプローチ方法を取り入れながら実験的な作品制作の試みを続けている。主な作品に、自己や身近な存在を投影した「LIFE」シリーズや、南極へ向かう船旅での出会いを描いた作品「Love Your Neighbor」などがある。近年の主な展覧会に、個展「Abstract Concept」(KEN NAKAHASHI、東京、2024年)、「Herbert Smith Freehills Portrait Award 2024」(National Portrait Gallery、ロンドン、2024年)、「美男におわす」(埼玉県立近代美術館/島根県立石見美術館、2021年)。



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