企画展「偶然、引かれた線」【街歩き編】
井原  信次
まちなか展示『絵画と小説』についてご紹介します。
本作品では、20年後のヒロシマに向けて作品を制作しています。


⚫︎絵画について
Yesterday - Painting for the Beatles record jacket
キャンバスに油彩、2025
⚫︎小説について

〈あらすじ〉
病気により意識不明のまま眠っていた画家は、20年ぶりに奇跡的に目を覚ます。そこは2045年の広島。過去の記憶を振り返りながら、街中のとある喫茶店に辿り着く。店内に飾られていた一枚の絵に目が留まり、20年前に自身が描いたものであることを知る。ミュージシャンとの出会いをきっかけに描かれたその絵の背景は...。被爆から100年の節目を迎えるヒロシマを舞台に、過去のものが現在のものとなり、未来のものが現在のものとなる世界を絵画と小説で描く。

※本作品の完成は、今年8月開催予定の「偶然、引かれた線」【8・6 編】での展示を予定しています。今回、【街歩き編】では小説〈前編〉をプロローグとして書いています。まだ書きかけで見苦しいところがあるかと思いますが、8月の完成まで編集・校正中も本ページを公開していますので、お手持ちのポストカード(QRコード)から暖かい目で見守っていただけましたら幸いです。


企画展詳細については下記リンクをご確認ください。(作品資料展示 @ヒロシマ・ドローイング・ラボ)
⚫︎作家プロフィール
井原 信次 Shinji Ihara 
1987年 福岡県出身。2012年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻修了。主にポートレイトを描くことを通して、自己と他者の関係性やその境界について考察・制作を行う。近年はこれまでの絵画表現に加え、様々なアプローチ方法を取り入れながら実験的な作品制作の試みを続けている。主な作品に、自己や身近な存在を投影した「LIFE」シリーズや、南極へ向かう船旅での出会いを描いた作品「Love Your Neighbor」などがある。近年の主な展覧会に、個展「Abstract Concept」(KEN NAKAHASHI、東京、2024年)、「Herbert Smith Freehills Portrait Award 2024」(National Portrait Gallery、ロンドン、2024年)、「美男におわす」(埼玉県立近代美術館/島根県立石見美術館、2021年)。



⚫︎STARTING THE NOVEL

「ピッ、ピッ、ピッ…」

繰り返される機械音と閉じた瞼の裏側で外光を感じ、しばらくその音と光だけに集中することにした。

ゆっくりと目を開くとLEDの強い光と天井が目に入ってきた。ベットに横たわり、隣人とはカーテンで仕切られている。右腕に繋がれた点滴がぽたぽたと体の中に流れてくる。

力がスーと抜けていくような感覚がした。

「ピッ、ピッ、ピッ…」



ひとりの女性が部屋に入ってきた。

私の視線には気づいていたようだったが特に気にする様子もなく、慣れた手つきで身体に繋がれた管の先に溜まった液体物を交換し、ブラシの補充などを行っていた。

「それは何ですか?」と女性に尋ねた。

彼女は目をクッとさせながら「意識が戻ったんですか!?」と発し、私の質問に答えることもなく、とてつもないスピードで部屋を出ていった。

それからしばらくして医師がやってきて、これまでの経緯や病状について話をしてくれた。担当医によると、私は20年前に脳出血でこの病院に運ばれて緊急手術を行ったが、脳の損傷がひどく、意識が戻るか分からない状態だったという。医師からは尊厳死も提案されたが、家族は母の想いを尊重し、最終的には延命治療を選択したという。

私は58歳になっていた。

それから1週間程さまざまな検査が行われた。奇跡的に意識を取り戻したことは良かったが、20年もの月日の経過はあまりにも大きかった。衰えた筋力、顔や皮膚の皺、言語と記憶障害。特に記憶障害はひどく、意識的に思い出すというより目に入ったものから情報を抽出していくような作業であった。家族や友人たちとの面会でさえ名前を言われてやっと記憶が蘇るといった感じ。

それでも辛いリハビリを乗り越え、春には退院して家に戻れることになった。

迎えのタクシーはAIによる自動運転で無人になっていて、2025年にはまだ日本では見ない光景だったが、ずらっと並んだ無人タクシーたちがビービービーとクラクションを鳴らしあっている様は少し悍ましく感じた。

タクシーが家に到着すると、さまざまな記憶が戻ってきた。
歓楽街にある二階建ての一軒家に住んでいたこと。家をアトリエにして絵を描いていたこと、家の両隣がヤクザの事務所とラブホテルだったこと、ヤクザは朝が早いこと、家の前にはよく彼らの黒塗りの車が停まっていて自転車が出せずに困っていたこと、ラブホテルの外壁が褐色から水色に塗り替えられ部屋に入ってくる反射光が水色になって絵が描きづらくなったこと。どうでもいい記憶ほど消えないのは不思議である。

部屋は綺麗に掃除されていたが、私の部屋だけが時が止まったように当時と変わらないまま残されていた。

家の脇に生えている名前の分からない木が変わらず二階のアトリエの窓から見えた。彼は切っては伸び、切っては伸びを繰り返し、家裏の駐車場へ飛び出していくからあまりいいヤツではなかった。ただ、大きな葉っぱとその鮮やかな緑が、古く錆びれた家に癒しを与えてくれていた。

アトリエからその木を眺めていると、何か忘れているものがあるように感じて、それを確かめるために私は家の外へ出た。

木の根本の方に小さな鉄製の札が巻かれているのに気が付いた。そこには「TC2025」とニードルで彫ったような文字が書いてある。明らかに私が書いたのであろうその文字に、頭の片隅で恒星が微かに光っているのを感じた。

何かあるのだろう、私はショベルを手に木の下の土を掘り起こしていった。硬い土の中から出てきたのはステンレス製の細長い筒。それには「Time Capsule」と書いてあった。

アトリエに戻って、その頑丈に留められたボルトを一本ずつ取り外していく。その中から出てきたのは私が2025年に埋めた写真や日記たちであった。

私はその写真を見てある事を思い出し、その記憶をもとに街へ出かけることにした。


私が住む流川・薬研堀エリアはさほど大きくは変わっていなかった。古い家々がコインパーキングに変えられていたくらいだろうか。

流川を抜けて中央通りを渡ると、すぐ右手にあった福屋デパートも変わらず営業をしていた。福屋八丁堀本館は被爆建物でもあり、私にとって街のシンボル的な存在でもあったから、その変わらない姿に少し安堵した。最上階の喫煙所でよくタバコを吸っていた。屋上の広場で遊ぶ子どもたちを横目に、晴れた日は陽の光を浴びながら一服するのが心地良かった。

2021年の東京五輪開催に合わせて受動喫煙防止のルールも厳しくなり、そのおかげで飲食店はおろか、コーヒーを飲みながら喫煙できるカフェは皆無に近かった。

2045年においては喫煙者は絶滅危惧種のようなものだ。立ち寄ったコンビニでタバコを探したが、レジ裏にあった陳列棚は姿を消していた。「Winstonの1mmロングはありますか?」と店員に聞くと、バックヤードから持ってくる始末。たばこ税の値上がりと国の健康増進政策とやらで紙タバコを買う人は滅多にいないという。

タイムカプセルの記憶を頼りに金座街へ向かった。恥ずかしながら、いつもこの通りの名前を金か銀かで覚えられずにいた。この通りの名前は1929年の福屋の出店をきっかけに、東京の「銀座」よりも立派な街にしようという想いで「金座街」と命名したそうだ。ギラギラしているのが銀座なら、キラキラしているのが金座街だろうか。福屋やPARCOをはじめ、ファッション店や飲食店、古本屋や時計店など、大型店と地元老舗店が共存する商店街である。入れ替わる店舗も多かったが、いつからお店を営んでいるのだろうという古いお店も多かった。

近所だから毎日のように来ていたし、よくここで一服することが多かった。私は買ったタバコを手に目的の場所であった喫茶店に向かった。

その喫茶店は金座街のど真ん中にあって、広島に住んでいる人なら行ったことがなくても「イエスタデイ」と言えば「あぁ、あのレトロなお店ね」と言うくらい存在感のあるお店だ。

昭和時代の雰囲気を残す「イエスタデイ」は、ビートルズのBGMが流れる落ち着いた喫茶店で、店内にはビートルズのレコードやポスター、グッズや書籍がずらりと飾られている。小洒落た高いカフェと違って、リーズナブルな価格で提供されるコーヒーや軽食も老若男女に愛される理由だろうか。

入口の階段を上がると10席ほどのカウンター席とその奥にレジカウンターとがあり、そこで注文をして商品を受け取って空いている席を探すといった感じ。2階からまた階段をのぼると3階には小さな丸いテーブル席とその奥には区切られた喫煙席とがある。

私は昔からそこが好きだった。まぁ、コーヒーを飲みながらタバコが吸える場所が他になかったというのもあるが、日頃、何かにストレスを感じることがあっても、ここに来れば別の世界に入り込んだように何も関係がなくなる。私にとってのセーフティースポットであった。

人間観察はもとより、私は一人そこで毎日のように、文章を書いたり、その日に描く絵を考えたり、雑念がない空間でしか出来ないことをやっていた。


20年ぶりのイエスタデイ。変わらずマスターが出迎えてくれた。出迎えてくれたと言っても何か話す訳でもなく、いつも頼んでいたアイスラテを注文し3階の喫煙席へ向かった。年老いた私にはさすがに気付かなかったのだろう、私も恥ずかしくて何も言えなかった。

20年前、毎日のように通っていたイエスタデイ。マスターにも顔を覚えられていて、私がレジカウンターに辿り着く頃にはいつもアイスラテが出来上がっていた。私はそれが好きだったから、寒い冬の日でもアイスラテしか頼まなかった。

懐かしい味とビートルズのBGMを楽しみながら、20年ぶりのイエスタデイでの時間を過ごしていた。

トイレに席を立った時、階段の近くにある絵に目が留まった。それにはイエスタデイの前を4人で歩いているビートルズの姿が描かれていた。

しばらくその絵を見ていると、3階に上がってきたマスターが声を掛けてきた。

「やっぱり君だったんだね。」

マスターは実は気づいていたらしい。でも、人違いじゃいけないし、確信が持てるまでは話しかけまいと思っていたようだ。

マスターもポーカーフェイスである。

昔通っていた頃、態度の悪い客がいたりすると厳しく対応するマスターをよく見かけていたから、少し怖くて話しかけられなかったんだ。でも、ご近所さんだってことが分かった時からよく話すようになって、もうそれはそれは満面の笑顔で話しかけてきてくれる。ギャップがすごいんだ。

20年経ってマスターもよい歳になっていたけど、変わらない笑顔が見られて嬉しかった。

「これは君が描いたんだよ。」
「そうでしたっけ…記憶が曖昧で…」

記憶障害のことを話すと、マスターがこの絵を描いた時のことを話してくれた。それと同時に私も当時の記憶が蘇ってきた。

あれは今と同じ、桜が満開になる2025年春のことである。私はいつものようにイエスタデイでアイスラテを飲んでいた。

二十二時半を過ぎた頃だろうか、外国人観光客らしい男たちが喫煙席に入ってきた。喫煙席の奥の奥、ソファのあるテーブル席に座った時点でカウンターの鏡ごしに彼らが4人組であることが分かった。

二十三時、お店のシャッターを閉める音が下の階から聴こえてくる。閉店1時間前のラストオーダーが終わるとマスターが店じまいを始めるのだ。

客もはけ、同じ階には私とその外国人たちだけになっていた。彼らは談笑しながら、妙にお店に馴染んでいる。

片付けを終えたマスターがやって来て、彼らに何やらお願いをしているようだ。話を終えたマスターに尋ねると、いつも冷静なマスターの両目がキラキラと輝いていた。

「彼らはビートルズだよ!信じられないだろ⁉︎ これ、貰っちゃったよ、お店に飾らなきゃ!」と言って、4人のサインが書かれた紙を嬉しそうに見せてくれた。

嘘だろ?と思いながらも、確かにあの外国人たちはお店の中に飾られている写真やポスターと同じ顔をしている。

私の鼓動が急に速くなるのを感じた。咄嗟にスマホを持って、写真…写真…と心の中で唱えながら数分後には彼らの前に立って話しかけていた。

「Could we take a picture together?」と聞くと、「Sure, sure ‼︎」と快く応じてくれた。

信じられないと思いながらも彼らの腕が私の肩に乗り、目の前の現実が虚構でないことを実感した。

写真を撮ってくれた後も彼らは「こっちで一緒に飲もうよ」と言って仲間に入れてくれた。

来日は1966年の武道館での日本公演ぶりで、広島は初めての滞在であるとのこと。私も自己紹介をして「I'm a painter」と話すとすごく興味を持ってくれて、私のポートフォリオを熱心に見てくれた。

彼らが武道館公演の際に滞在中のホテルで4人で描いた「Images of a Woman」という絵も、レノンが美術専門学校に行っていたことも知っていたからアートにも馴染みがあるのだろうとは思っていた。

君はポートレートを描くのが好きなの?と聞いてきたから、そうだよ、私のmain subjectだよと返したら、4人が何やらコソコソと相談し始めた。しばらくしてレノンが私に「僕たちをモデルに描いてみてよ」と言ってきた。一瞬どういう事だろうと戸惑ったが、話しを聞いてみると広島には曲作りに来ているらしく、その新曲のレコードジャケットのデザインもどうするか考えていたところだったらしい。

なんと、ビートルズから絵を頼まれるとは考えにも及ばなかった。私はうなずきながらも果たして何を描いたらいいのやらと思いつつ、その場の空気でOKと言ってしまった。

レノンはその後「締切が一週間後…」と話してきた。
先に聞いておくべきだったが、これも何かの縁だし、彼らにとっての出会いもアートなのだろうと推測した。

作曲のインスピレーションを得るために明日ちょうど広島を廻る予定だったから良かったら案内してくれないかと言ってきた。

私は広島には住んでいるけど、生まれは違うし、案内できるほど広島のことを知らないよと話すと「僕たちも一緒だよ、だからなおさら一緒に探検しようよ!」と説得された。


次の日、彼らとサイクリングをしながら被爆建物を巡ることにした。彼らも建築に興味があるようだったし、広島を巡るには自転車がちょうど良かった。というのも、私も何処を廻ればいいかよく分からなかったから、当時、インターネットで調べた「広島ピースツーリズム」という広島市が紹介していた被爆建造物を巡るルートをアレンジして巡ることにした。近くに住んでいてもなかなか行く機会もないし、彼らと共にヒロシマを見ていくのにはちょうどいいルートだと思った。


次の日の朝、彼らが泊まっているホテルで待ち合わせることにした。そこは2025年3月にリニューアルオープンした広島駅の上に新しく出来たホテルだった。

少し肌寒さが残る4月の早朝、誰もいない駅ビルの屋上で彼らを待つ。眼下には駅前通りの景色が一直線上に広がっている。

2020年から2025年までにリニューアル工事を行っていた広島駅。リニューアルオープン初日、少し胸を踊らせながら屋上まで上っていったことを覚えている。東京、大阪、福岡などと比べるとそこまで大きくはない駅ビルだったが、JRと路面電車の乗り換え時間短縮のために路面電車の線路が駅の中まで乗り入れる斬新なデザインになっていた。

それに加えて、今まで横断歩道がなく不便だった駅前の通りに「ペデストリアンデッキ」という歩道橋ができ、隣接する家電量販店や百貨店への行き来がスムーズになった。コンパクトながら市民や近隣の商業施設に寄り添った良い造りである。      

広島駅前は被爆後、焼け野原に闇市の露店やバラックが立ち並び、その商人の多くは戦地から帰ってきた幅員だったという。1960年代、市の職員たちが川沿いに建てられたバラックを行政執行により取り壊し、闇市から派生した暴力団が拳銃発砲事件を起こすこともあったという。そういう「仁義なき戦い」の時代の上に新しい広島駅の姿を見ると感慨深いものがある。

ホテルのフロントから4人が出てくるのが見えた。アメリカ人とは違うアクセントで「Good Morning」と挨拶をしてきたのが印象的だった。私も真似て、そのあと何回か練習したのを覚えている。

すでに自転車を借りてきていた私は、彼らとコンビニに行って一日レンタル用のチケットを4枚購入した。

当時、私が知っている限りでは3種類ほどのシェアサイクルがあった。バイクのように力をほとんど入れなくてもスイスイと進むモダンな電動自転車もあったが、あえて旧いタイプの赤色の電動自転車を選んだ。単純に一日券がそちらの方が安いというのもあったが、広島を巡るならやっぱり赤だろうと。あるいは、イギリス人には赤が似合うとの安易な憶測だったのだろうか。

子供の頃は彼らもよく自転車を乗っていたという。借りた自転車をすぐに乗りこなし私より前に出ることも多かったが、お忍びで来ている彼らの案内人としてはひやひやすることもあった。でもまぁ、ビートルズが広島に来ているとは誰も思うはずもなく、そこまで気にはしていなかった。

桜並木を横目に平和公園の側道を走り抜けて、平和記念資料館に辿り着いた。


〈 続きは近日中に更新予定 〉









小説後編は、彼らとロンドンの「アビー・ロード」を巡ったエピソードから、イエスタデイの歴史と広島との関係性、2025年8月6日に開催されたビートルズ幻の広島LIVE、衝撃の結末 etc...
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